西寺尾村で一番大きな出来事は一七世紀後半の千曲川の流路の変更である。この瀬直しによって村は真っ二つに分断された。分断後は千曲川が大きな障害となって、村人は行き来も思うようにできなくなってしまった。また、両岸で利害の相反することも多くなってしまった。
瀬直しの直接の原因は、松代城下に大きな被害をもたらした寛保(かんぽう)二年(一七四二)の戌(いぬ)の満水である。もともと千曲川の川筋は小森(こもり)村(篠ノ井小森)から赤坂を通り、道島(どうじま)地籍に突きあたるように湾入し、象山(ぞうざん)の山麓を北流して松代城の直下を洗うように流れていた。そのために城下は洪水の害を受けやすかった。戌の満水では松代城の本丸まで水が押しよせた。二ノ丸御殿では床上一・八メートルまで水につかり、藩主真田信安は船で西条(松代町西条)の開善寺に難を避けたという。そのうえ総堀はことごとく埋まり、城詰米五〇〇石、城つき武具なども濁水につかって役に立たなくなった。
このために藩では、千曲川の流れを西方に移す計画をたてた。『朝陽館漫筆(ちょうようかんまんぴつ)』によれば戌の満水後、家老原八郎五郎を奉行としておこなわれた。いまのJAグリーン長野東福寺(とうふくじ)支所の南方で真っすぐに東流させ、さらに杵淵(きねぶち)村南方で北流させる工事であった。この工事は護岸の手段が講じられていない素掘りの工事だった。そのために川岸が年々削られて多くの土地が流失している。同じ東福寺村の宝暦十二年(一七六二)の検地の絵図面では、当初一四間だった新堀川の川幅が四四間となって、川欠(かわかけ)面積も五八七石となっている。
東福寺村のこの絵図面や文書から、工事は延享(えんきょう)四年(一七四七)から始まり、宝暦十年ころにはいちおう完成していたと考えられている(『千曲川の瀬直しにみる村人のくらし』)。しかし、明和二年(一七六五)の水害で松代城はふたたび大被害を受けている。また松代藩の「監察日記書抜」には明和六年から翌七年の千曲川改修工事が記載されている。これらのことから、宝暦の改修では古い河道は完全にはふさがれてはおらず、千曲川は旧河道と新堀川の二つの流れに分かれていたと考えられる。古い河道は明和の工事で完全にふさがれたのであろう(『松代城の調査概要』)。