江戸時代中期以後国学がさかんになると、神社名を旧称にもどしたり『延喜式(えんぎしき)』神明帳(じんみょうちょう)に記載される式内社(しきないしゃ)の社格を求める動きが出てきた。
西寺尾村でも寛政元年(一七八九)諏訪明神を旧称の頤気(いき)神社と改称するための願いを、京都の吉田家に出そうとした。頤気神社の呼称については、隣村の小島田(おしまだ)村でも明和のころから、同村の諏訪大明神を頤気神社と改称しようとしていたので、両村のあいだで争いがおきた。この争いは桑根井(くわねい)(松代町豊栄)の神主が仲裁に入り、「小島田村が頤気神社の名称を分与した」ということで和解した。同年両神社に「頤気神社」の呼称が許された。天保十二年(一八四一)「式内社」の認定を両村で共願して許可された。このときも、西寺尾村の頤気神社名を先に書いたことで小島田村から異議が出て紛糾した。