自給から商品作物へ

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江戸時代の中期から水田の二毛作が普及していた。裏作は大麦であった。畑作も前作が大麦、後作には麻・大豆・荏胡麻(えごま)などをつくっていた。作物はほとんど自給用であり、大麦はひきわりにして主食を補った。一九世紀に入ると、藩は養蚕・藍(あい)・綿・菜種などの商品作物の栽培を奨励した。『町村誌』によると明治七年(一八七四)、西寺尾地区では綿三七五〇貫(約一万四〇六三キログラム)を産し、そのうち一二五〇貫(約四六八八キログラム)を長野町・稲荷山(いなりやま)町に売っている。そのほかに藍九〇〇貫(約三三七五キログラム)・菜種二五〇石を松代など近在に売っている。杵淵村では綿五七〇貫(約二一三八キログラム)を産している。

 養蚕のはじまりについて、『御領分江養蚕相弘リ候始末書』には「文化年間(一八〇四~一八)には松代領内一円に広まっていた」とあるので、一九世紀の初頭には西寺尾でも始まっていたと考えられる。

 明治七年、西寺尾村は繭(まゆ)一〇〇石(約四〇〇〇キログラム)を近在に出荷しているほか、蚕種五〇〇枚を生産している。そのうち三五〇枚を横浜に出荷している。杵淵村では繭五四石「約二一六〇キログラム)・蚕種四五〇枚・生糸七貫(約二七キログラム)を近在に出荷している(『町村誌』)。

 大正六年(一九一七)の『長野県市町村提要』で、西寺尾村は重要物産の種類産額に「繭 春夏秋九四九石(約三万七九六〇キログラム)、大麦五〇〇石、蔬菜(そさい)五万貫(約一八八トン)」と繭を第一にあげている。産業の中心が養蚕であったことがわかる。繭の生産額は明治七年の一五四石に比べて六倍以上の伸びである。

 大正から昭和初期の学校の記録をみると、七月末から八月初旬にかけてと、八月下旬から九月上旬の問の二回学校は休業を設けている。夏蚕(なつご)と秋蚕(あいご)のための蚕休(かいこやす)みであった。

 養蚕は霜害・干害に弱いので、明治三十年代後半から各集落にできた青年会が中心となって、杞柳(きりゅう)などの換金作物の研究をしている。しかし、養蚕にまさるものはなかった。

 明治末期にはごぼうなどの根菜類を中心とする蔬菜の栽培もさかんになってきている。昭和に入ると水田の裏作や畑作の大麦栽培は小麦にかわり、うどん粉として最良の伊賀筑(いがちく)オレゴン種が栽培されるようになった。