寺尾橋の変遷

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明治になって交通量が増大した。交通量が増すと、千曲川・犀川の渡河は渡し舟では対応できなくなり、架橋が求められた。丹波島(たんばじま)船橋が完成した明治六年(一八七三)の四月には、寺尾の渡しも船橋に生まれかわった。船一〇艘を並べた上に幅九尺(約二・七メートル)、長さ二五間(約四五メートル)のあいだを板を敷きつめたものだった。西寺尾の有志や旧松代藩士によって架橋されたもので、おとな八厘の橋銭が徴収された(『寺尾渡しの今昔』)。

 増水のたびに流失してしまう船橋が木橋にかわったのは、明治二十四年あるいは二十五年とされている。寺尾橋は大正半ばまで民営で、大正四年の通行料は一銭だった。明治三十年代末にはこの橋を渡って長野に向かう乗合馬車が通った。料金は三〇銭だった(『更埴地方誌』)。


写真5 寺尾の木橋 (川中島建設KK提供)