西寺尾は千曲川の沿岸にあるため古くから水害を受けやすかった。ことに江戸中期の千曲川改修によって、村の中央を川が流れるようになってからは、いっそう被害を受けやすくなった。慶長年間(一五九六~一六一五)から慶応までの二七〇年間、大洪水だけでも六十数回記録されている。四、五年に一回の割合である。なかでも大きな被害があったのは、戌(いぬ)の満水(まんすい)とよばれた寛保(かんぽう)二年(一七四二)の水害であった。寛保二壬戌(みずのえいぬ)の年七月二十八日午前二時ころより降りだした雨は翌二十九日になっても降りやまず、夕暮れころから篠を束ねて突きさすような豪雨となった。軒先の土砂を押しながし外へ出ることもできなかった。夜明けになっても一向にやむ気配もなかった。翌八月一日(この年の七月は小の月で二十九日まで)午後一〇時ころ千曲川が一気にあふれ、濁流が流域の村々を襲った。田畑・家屋も流され多くの流失死人が出た。暗夜のために被害はいっそう拡大した。西寺尾村は男女一三人が流死、流失家屋二軒、潰屋一三軒、田畑全部浸水。杵淵村は六三人が流死、流失家屋二三軒、潰屋二一軒の被害であった(『更級郡誌』)。寛保二年十一月の「松代領水損につき国役金延納方伺書」では、西寺尾村は川欠荒地(かわかけあれち)永引三一二石、石砂入荒地永引一〇八石、当戌一毛損毛(とういぬいちもうそんもう)四六八石、合計八八八石(村の全石高一一三五石の七八パーセント)、杵淵村は川欠荒地永引五一石、石砂入荒地永引五五石、当戌一毛損毛二五〇石(全村高五四九石の六五パーセント)の被害を記している。