明治以後の近代社会になっても、水害は依然として人びとを苦しめていた。川東の学校近くの集落は水害の常襲地帯で、学校の体操場は千曲川が増水するといつも水につかったという。明治三十九年(一九〇六)七月十一日には床上二尺(六〇センチメートル)の浸水があり、泥が五寸(一五センチメートル)も積もったという。明治四十三年八月十一日には明治以後最大という水害が村を襲った。流失家屋三七戸・床上浸水三四六戸、村の全戸が被害という惨状であった。少し以前まで教覚寺の庫裏(くり)の壁には、床上一メートルぐらいのところに浸水の跡が残っていたという。もとは水田であった上高相(かみたかそう)・下高相(しもたかそう)・午新田(うましんでん)など一帯の地が、一夜で土砂が堆積(たいせき)して畑地に変わってしまった。