県は千曲川の河川調査を実施して関係方面に改修を働きかけた。その結果大正七年(一九一八)から内務省直轄工事として、下流の飯山市大坪から上流の上田市小牧に向けて改修工事が始まった。改修工事では川幅を広く取り、新堤防を両岸の集落ぎりぎりの箇所に設置することになった。そのために西寺尾では小学校と両岸の三九戸の家が堤防外地に取り残されることになった。江戸時代の瀬替えで村を分断された西寺尾はふたたび大きな試練を受けることになった。なかでも学校の移転は大問題で難航した。寺尾橋はまだ木橋であり、大雨のたびに橋板がはずされた。そのたびに四日ぐらいは学校へいけなかった。西岸にするか、東岸にするかは本当に大きな問題だった。そのうえ西寺尾尋常小学校を川東につくったときの約定(やくじょう)(天変地変のないかぎり位置の変更をしない)もあった。
学校移転の結論が出ないまま堤防工事はどんどんすすんだ。小学校の移転は急を要することになってきた。更級郡町村長会が調停に入ったが不調に終わった。昭和六年(一九三一)二月、当時の村長はついに辞任。助役も退任し官選の代理村長が就任する事態となった。同年五月、頤気(いき)神社前で臨時村会を開き、代理村長提示の調停案を審議した。その結果一部手直しして合意をみた。①小学校位置は杵淵新田前とする。②不要になった現在の校舎は、一区に無償譲渡する(公会堂その他公共用の建物を建設)。③第二区・第三区内から少なくとも一五〇〇円以上の寄付を募り、学校敷地買収費・地ならし費にあてる。④その他道路の拡張・付け替えなど二条件がその内容であった。建設費は三万円、国の移転費は九〇〇〇円だけで、あとはいっさい村の負担だった。農村不況の真っ最中のこと村民の負担はたいへんなものだった。寄付金は少ないもので一円三〇銭、多いものは九〇円であった。同六年十二月に新校舎が落成して移転が完了した。三九戸の人びとも代々住みなれた土地を離れ移住していった。
この工事に西寺尾村は、追加割り当てをふくめて一万四〇四円余の地元負担金を一六ヵ年賦で納入している。この金額は更級郡では塩崎村・稲荷山町につぐ高額だった。工事は昭和十六年に完成した。