明治五年(一八七二)八月の学制発布によって、西寺尾地区に近代的な学校教育が始まった。村の中央を流れる千曲川は、永久橋が完成するまでは通学上の大きな障害であった。このため学校の位置を東岸にするか西岸にするかはたいへんな問題であった。
明治六年西寺尾・杵淵両村と東福寺村の中沢組は、杵淵村の典廐寺(てんきゅうじ)を仮の校舎として、稽徴(けいちょう)学校を設立した。しかし中沢組は九年七月に東福学校へ移った。八月に水沢の南端に新校舎を設立した。
稽徴学校は川西にあったため、川東の児童は通学が困難であった。このために西寺尾村は翌七年四月に西法寺を借用して西寺尾学校を設立した。しかし川西地区の岡・神明(しんめい)の両組は船橋を渡らなければならなかったので、九年からはふたたび杵淵村の稽徴学校へ通学するようになった。
明治十八年、県は杵淵ほか三ヵ村連合村の稽徴・西寺尾・東福の三校を十九年四月をもって統合するよう指令した。千曲川の両岸に分かれている西寺尾村にとっては、たいへんな難問題であった。しかし統合の期日の押し詰まっていることで、とりあえず東福寺村の松木(まつぎ)に松木学校を開設し、西寺尾学校と稽徴学校を支校とすることで話し合いがついた。しかし支校は一校しか認められず、仕方なく稽徴学校を無許可の支校として存続させた。