江戸時代の末期には庶民のあいだにも、俳諧(はいかい)・狂歌・謡曲・華道などがさかんになってきていた。水沢の槌井神社に俳句の掲額があるので、地区でも俳句が盛んに学ばれていたことがうかがえる。文政六年(一八二三)に没した虎杖庵天姥(こじょうあんてんろう)の追善句集『花野集』に西寺尾の四人の句が掲載されている。
幕末には月院社丿左(げついんしゃへっさ)が出ている。丿左は文政三年、松代にきた江戸の俳人月院社何丸の話に感動して弟子となった。農閑期に江戸に赴き学ぶこと一〇年余、ついに何丸の弟子の首座となった。天保十三年(一八四二)頤気(いき)神社に芭蕉の「顔に似(に)ぬ発句(ほっく)も出でよはつ桜」という句碑を建立した。そのさいの記念句集に『はつざくら』がある。全国各地を遊詠し、安永から文久にいたる著名な俳人の連歌・発句を集録した『一覧集(いちらんしゅう)』を出版した。