昭和三十三年、篠ノ井西寺尾農協に青年部が結成されて経営の改善に取りくんだ。西寺尾農業はこれを軸として大きく様変(さまが)わりした。青年部は三十九年バインダー三台を購入、米作労働の短縮をはかり、その余力で水田の裏作にたまねぎ栽培をすすめるなど積極的な経営改善を実践した。
東岸では早くから長芋栽培がさかんになっていたが、その刺激をうけて西岸でも長芋栽培が広がり、桑園はしだいに姿を消していった。昭和四十八年、長芋の掘りとりにドレンチャーが導入され、長芋の生産が増加した。しかし、間もなく長芋に連作の病害が目立ちはじめ、これにかわる作物が求められた。同じころ政府の稲作の減反政策がすすめられ、米にかわる作物が求められた。
モモとアスパラガスの栽培がそれであった。アスパラガスは五十三年には五〇万乗、五十五年には一〇〇万乗を出荷するようになり、全国各地から視察団が訪れた。しかし、アスパラガスは国内の他産地や海外との競合と、春先の消毒などに多くの労働力を要することから、栽培面積は減少しモモ栽培にかわっていった。
モモは現在の西寺尾農業の中心であり、今後も栽培面積の増加が期待されている。西寺尾のモモの栽培は、栽培技術はもとより、共同選果場にいち早く光センサーを導入して糖度の高いものを出荷するなど、販売面でも先進的な位置を占めている。四十四年ころから始まったえのき茸の施設栽培も現在ではモモにつぐ販売額をあげている。