行政区画の分合

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信里地区は松代藩領で、近世のはじめ山布施村と有旅村の二ヵ村であった。幕末には山布施村・山村山村・青池村・有旅村・入有旅村・中山新田村の六ヵ村からなっていた。明治五年(一八七二)有旅村・中山新田村・入有旅村の三村が合併して有旅村となり、同六年には山布施村・山村山村・青池村が合併して山布施村となった(『町村誌』)。

 明治五年の「戸籍法」の施行にともなう戸籍区では山布施村・有旅村とも第三五区に属し、区には戸長・副戸長、村には名主がおかれた。同七年には区画改正がなされ大小区制となった。山布施村と有旅村は第一五大区第六小区に属し、大区会所は田野口村(信更町)、小区扱所は山布施村におかれた。同九年地租改正にともない飛地整理のため、有旅村の桜井は山平林村(信更町)へ、浅野は氷熊村(信更町)へ編入した(『長野県市町村合併誌』)。同十二年大小区制を廃止、町村ごとに戸長役場を設け戸長を公選した。山布施村は若林に、有旅村は上有旅に戸長役場を設けた。同十八年の連合町村制では山布施村と有旅村の二ヵ村が連合し、戸長役場を笹鍋(ささなべ)に設置し、戸長は官選となった。

 明治二十一年には近世以来の小村を再編させ、自治に堪える新たな町村をつくるため「市制・町村制」が公布された。県では山布施村と有旅村を一村とする合併案を両村に諮問した。この諮問にたいし両村からは異議なしとの答申がなされた。同二十二年四月一日にはこの二ヵ村が合併して、戸数四五六、人口二五四八の信里村が誕生し、初代村長には佐藤喜左衛門が就任した。