昭和二十八年(一九五三)「町村合併促進法」にともない、信里村には上水内郡七二会村と篠ノ井町から合併の勧誘があった。同二十九年四月各区から選出された委員によって「町村合併調査研究会」を設置し研究を始めた。北部は同じ環境条件である七二会村・更府村との合併を希望し、南部は発展途上にある篠ノ井町との合併を主張した。そのころ県の合併案は、篠ノ井町・信里村・共和村・中津村・御厨(みくりや)村・川中島村・西寺尾村を一つにする案であった。そのうち共和村は昭和二十九年七月篠ノ井町と合併した。その後、信里村も篠ノ井町との合併の方向になり、同三十年二月「篠ノ井町信里村合併促進協議会」を発足させた。これにたいし「信里村分村促進協議会」は一九二人の署名をもって、村長に分村の具申書を提出した。村当局は分村して合併することはいずれも利益がないとして、全村一致で篠ノ井町との合併をはかるべきであるとし、話し合いを重ね篠ノ井町との合併にまとまった。
これによって昭和三十年三月九日両町村の議会が開かれ合併関係議案の議決がなされ、同年四月一日、六六年間つづいた信里村は篠ノ井町と正式に合併し、篠ノ井町信里地区となった。
篠ノ井町はその後西寺尾の川西地区が松代町から分町して合併、さらに塩崎村も合併し、市の要件である人口三万人以上になったので昭和三十四年五月一日篠ノ井市となった。同三十八年二月篠ノ井市は長野市から合併の打診を受けた。篠ノ井市のなかでは商圏の移動を懸念し反対もあったが、近隣の市町村の動きや財政上のことなどから同四十一年七月篠ノ井市議会は長野市との合併を議決した。同年十月十六日には松代町・若穂町・川中島町・更北村・七二会村・信更村とともに篠ノ井市も正式に長野市と合併した。
これによって信里地区は長野市に属し、長野市篠ノ井山布施、長野市篠ノ井有旅となった。