『町村誌』には古城址とあり、有旅村の北東約五五〇メートルに位置し、「東西二〇間(約三六・四メートル)、南北一五間(約二七・三メートル)。東は一丈(約三メートル)ほど低く、西は平坦である。南は二重に五稜形の石垣があり、北は高さ五丈(約一五メートル)ほどの険しい地となる」と記している。『更埴地方誌』はこれを有旅城にあてている。明治初年のころまで原形を残していたようである。「滋野姓平林氏系図案」によれば、築城は平林正直としている。正直の父直頼は弟の直長に子の正直の後見をさせたが所領のことから争って、直長は奥州へ出奔し、正直・正頼はこの城に住んだのち上尾(あげお)城(信更町山平林)に移ったといわれている。