松代藩の行政区名の一つとして「有旅通り」と呼ばれただけあって、松代と山中(さんちゅう)の往来の地である。うたび坂一里一五町三〇間(「正保信濃国絵図」約五・六キロメートル)を上りつめると口留(くちどめ)番所と高札場が置かれていた。右手には茶臼(ちゃうす)山がみえる。産土神(うぶすながみ)諏訪大明神(篠井神社)・照泉寺・篠井池(有旅大池)が隣りあっている。寛政十年(一七九八)惣兵衛は御用達金一〇両を出している。天保二年(一八三一)十二月所持地が錯綜混乱したため、村中と入作者が熟談し、地押(じおし)検地願を奉行所に出した。翌年に実施され、同九年に本・新田地押改帳を作成した。慶応四年(一八六八)村高六五八石余、一一七軒、五九二人、馬二四匹。