村山村の荒神さんは厄よけ・安産の寺としてにぎわっていた。嘉永五年(一八五二)松代藩の御林二六ヵ所の一つに村山御林がある。江戸時代初期の正保四年(一六四七)正月村山村の田島半四郎はお伊勢参りをし、京都をまわってきている。弘化四年(一八四七)の善光寺地震では犀川沿岸地だけに被害が大きかった。瀬成・粒良田も川欠(かわかけ)・石砂入がひどくのちに復旧に松代藩から借金をしたという。文久元年(一八六一)秋古では三間(約五・五メートル)と四尺(約一二一センチメートル)の舟一艘をもっていた。慶応四年の村高四一七石余、一一六軒、五八八人の大村であった。馬八匹。