草山三ヵ所の秣場

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山布施村の城平(じょうひら)・折井(おりい)・仙人田(せんにんだ)の草山三ヵ所は笹平村の秣場(まぐさば)であった。ここは山布施(やまぶせ)・遊谷(ゆや)・若林に近く、笹平村にとっても犀川をはさんだ川向こうの地である。戦国期末の天正二十年(一五九二)七月、山布施郷の大炊助・新吉・勘□らが笹平まち衆にたいし、「今後はその方の城平・折井・仙人田に踏みこみ、草を刈るものがいたら鎌を取り上げてもかまわない」と誓っている。真田氏松代藩領になっても問題は絶えなかったらしい。慶安元年(一六四八)七月、出浦織部ほか藩役人三人の名で「草山三ヵ所の出入りは天正二十年七月穿鑿(せんさく)の通り申し付ける」と申し渡している。

 明和元年(一七六四)十月、山布施村は秣場について奉行所から問われ、つぎの三点を申し立てている。①笹平村から願いでている草山三ヵ所の山年貢上納については、前々から笹平村が刈りとっているので、上納は差し障りがない。②草山三ヵ所の境筋は藩の立ち合いではっきりし境塚もたてたので、山布施村では以後少したりとも踏みこまない。③草山三ヵ所は草刈り場にし、山林にしないよう笹平村に仰せつけ願いたい。これにより奉行所は笹平村に「草山年貢は籾一俵二斗五升とし、これを山布施村土目録へ載せ、すなわち山布施村支配代官所に年々上納すること。また秣場に立木をたてて林にしないこと」を申しつけている。この草山三ヵ所について七二会地区にはつぎのような「はなし」が伝わっている。

 春日郷の笹平城主春日修理大夫は布施郷の領主布施頼直(直頼か)の姫と恋仲となった。美女だった姫が疱瘡(ほうそう)を患い、容姿が急変したため交際も絶えた。頼直は姫の嘆きをみて大夫に婚約を申しこんだところ、大夫はあわれみ、結婚となった。頼直はこれに感激し、草山三ヵ所を姫の化粧免(けしょうめん)として、婿殿(むこどの)にあたえた。これにより草山三ヵ所が笹平村の秣場になったという。