午札(うまさつ)騒動ともいう。松代藩領内では藩札(午札など)を回収するため、年貢を石代金で上納させることとしたが、藩札と太政官札との交換比率が主因で一揆(いっき)が起きた。一揆は明治三年(一八七〇)十一月二十五日から二十七日にかけて起きた。商法社頭取の大谷幸蔵宅を焼き払い、更埴一帯の農民数万人が松代城下に突入し、おもな役人と商人の家を焼いた。藩知事真田幸民(ゆきもと)は石代金引き下げ、藩札・太政官札の等価通用など一揆勢の要求を受け入れ騒動は落ちついた。
山中(上水内郡北部・西部地域)にも騒ぎが起こり、新町(信州新町)を越えて田ノ口方面と、笹平・小市渡しを渡って川中島平方面へすすんだ。途中暴力行為を起こしながら松代へ乱入したが、ときすでに問題は決着しており、構えていた藩兵に押さえられてしまった。さらに引き上げるとき川中島平の農民に追撃された。山布施村や有旅村の人たちは笹平渡しを渡ってきた人たちに加わったらしい。『藩幣騒擾(はんぺいそうじょう)調書』によれば「山中のものは笹平村や新町村の両口から松明(たいまつ)をかざし、干藁(ほしわら)に火をつけ家ごとに誘いをかけてきた。山布施村や有旅村のものは峠までついていったが隠れて引き上げた」といっている。「中山新田村・境新田村・氷熊村のものは田ノ口や赤田で炊き出しの手伝いをしていた。なかには松代まで行ったものもあるかもしれない」という。騒動にはあまり関係しなかったようにしているらしい。そのなかで山布施村の吉兵衛は息子儀市が病気のため止むをえず代わって一揆に加わっていった。なかなか帰村しないので儀市が調べると、原村の薬師堂沖で眉間(みけん)に傷を負って死んでいたという。
けっきょく中央政府が介入して、交換比率のうち石代納相場は知藩事が認めたものより不利な結果となったが、藩札と太政官札との等価交換は騒動を恐れて否定されなかった。検挙者は六百二十余人、入牢者四百余人、一揆の頭取とみなされた小平甚右衛門は斬罪、徒刑十余人。信里地区関係者は村預り者八人であった。