石高の変遷

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有旅村の村高は『慶長打立帳』三〇一石余、『正保(しょうほう)郷帳』二九一石余、うち田方一一六石余、畑方一七四石余と山地のわりに田方が多い。『元禄郷帳』も二九一石余と本高はかわらない。しかし、新田開発が貞享四年(一六八七)三〇四石余、元禄十年(一六九七)一五〇石余、天保元年(一八三〇)七九石余と大々的になされている(『信濃』七巻九号)。天保三年銘々の所持地が錯綜混乱したため、松代藩に願いでて地押検地が実施された。『天保郷帳』は八二六石余と『元禄郷帳』にくらべ二・八培となっている。『旧高旧領』では七七八石余となる。

 山布施村の村高は『慶長打立帳』五二八石余、『正保郷帳』五三〇石余、うち田方二一四石余、畑方三一五石余である。『元禄郷帳』も本高は五三〇石余とかわらない。いっぽう新田開発がすすみ、新田高が宝永元年(一七〇四)四八一石、天保元年一一三石余と登録されている(『信濃』七巻九号)。『天保郷帳』は一一二四石九六五と『元禄郷帳』の村高の二培以上である。そこに「古くは山布施村・中山新田二ヵ村」と注記している。これは新田高を加えた数値と一致する。安政六年(一八五九)の山布施村土目録では本田五三〇石三八、新田五九四石五八五としている。