養蚕業と果樹栽培

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信里村では文化十二年(一八一五)すでに中山新田村で桑苗を植えている。明治十三年(一八八〇)山布施村誌(『町村誌』)に養蚕は婦女子の仕事としているが、その後生糸の輸出好調から農家の有力な現金収入源となり、養蚕は農家の主要産業となった。信里村は昭和五年(一九三〇)には桑園面積一九八ヘクタール収繭量三万六九〇〇貫に達している。その後世界恐慌につづく戦争の影響で減少した。太平洋戦争後、養蚕業を復興させようとし、昭和二十七年桑園面積七七・六ヘクタール、農家数四八四、飼育個数三六一。各地域に公民館と兼ねて稚蚕飼育所を設けた。おもに山布施側がさかんであった。しかし、桑園栽培戸数は年々減少し、昭和五十年二六七戸、平成七年(一九九五)には二〇戸だけとなった。

 リンゴは昭和三年で一反歩(一〇アール)以上の耕作者が下有旅に四人いる。リンゴ栽培が本格的になったのは戦後である。昭和二十七年一三・七ヘクタール、同六十年には桑園面積を超して五二・七ヘクタールになった。リンゴはおもに有旅側がさかんである。平成二年果樹園面積は五六ヘクタールに達した。