山中(さんちゅう)(上水内郡西部地方)から松代への往来の道は、笹平(笹平村字舟場)の渡しから遊谷(ゆや)(篠ノ井山布施)に上り、山布施や青池村(同)をへて峠から有旅村(篠ノ井有旅)にくだる。有旅村には口留(くちどめ)番所や高札場が置かれていた。有旅坂をくだって川中島平に出、さらに北国街道を越えて、赤坂(篠ノ井東福寺)の渡しから松代に出た。嘉永二年(一八四九)松代藩八代藩主幸貫(ゆきつら)は善光寺地震のあと山中を巡見した。大安寺で昼食し笹平の渡しからは瀬成(篠ノ井山布施)をまわり若林(同)、熊野権現をへて青池村の急坂をのぼった。有旅村では総兵衛宅で小休し、有旅坂をくだって布施五明村、布施高田村、小森村をへて松代に帰っている。このとき藩絵師青木雪卿(せっけい)は随行し絵をかいた。
笹平の渡しは犀川にかかる笹平村と山布施村を結ぶ作場渡しである。渡し水面三五間(約六四メートル)。松代藩は七渡しに準じて舟一艘を給与し保護している。文化八年(一八一一)十一月笹平村は冬普請のため山中二七ヵ村から人足二四三、明き俵四一二、中縄一〇五把、杭二七本を集めている。明治二十六年(一八九三)村山・瀬脇間に木造橋ができると渡しはしだいに衰えていった。