寛永二年(一六二五)真田信之は領内に物資や人の出入りを取り締まる口留番所を二〇ヵ所置いた。いずれも領地境や交通の要地に設けられた。有旅村下有旅の口留番所も山中の笹平口と松代を結ぶ主要枝道に置かれている。口留番人は代々宮原家によって引き継がれ、案右衛門を襲名(しゅうめい)している。役料として籾が支給され、諸役御免、鉄砲の所持など許されていた。役目は軍事的な性格をもっていたが、女と物資の取り締まりが主になっていて、正徳五年(一七一五)では穀物・女・馬・酒・漆の実・炭・塩などであった。
文政五年(一八二二)から嘉永二年(一八四九)の有旅村口留番所の通行願をみると、そのほとんどは穀物である。駄賃渡世人が岡田村(篠ノ井岡田)・今井村(川中島町今井)・戸部村(同御厨)から籾・大麦・小麦などを新町(上水内郡信州新町)の市や上条村(同)に運搬している。また、山中からは大豆・小豆を矢代(更埴市)の穀物商に運搬している。明治四年(一八七一)の廃藩置県により翌年には二四七年ほどつづいた番所も廃止となった。
有旅村下有旅には松代藩領内(幕末四二ヵ所)で定められた高札場があった。道路拡幅のためうしろにずらしたが現存している(界紙写真「有旅の高札場」)。