弘化四年(一八四七)三月二十四日善光寺地震が起きた。村別の潰れ家・流失の被害は、山村山村一一五軒のうち五〇軒、山布施村一三〇軒のうち五四軒、青池村はなく、有旅村三軒(慶応四年軒数一一七)、中山新田村鶉石組四三軒のうち二軒、同村犬石組一軒(慶応四年軒数三六)であった(「山中筋廻村次第永井忠蔵書取申立」)。北西斜面の山布施側は有旅側とくらべ被害が大きかったようである。ことに犀川沿いの村山村は水害にもあっている。地震で下流の真(ま)(馬)神(がみ)山(小田切地区)や上流の虚空蔵(こくぞう)山(信更町)が崩落し、犀川が堰(せ)きとめられた。四月十三日上流の堰が切れていっきに大洪水となった。村山(上平組・本郷平組)は潰れ家もいれて四五軒と宝蔵寺、荒神堂、そのほかの堂二ヵ所を流失。穀物も残らず流失したという。このため田野口村の小林唯蔵から借米し、藩の救い米を頂戴している。
松代藩は災害復興資金として、嘉永元年(一八四八)から五ヵ年間一八歳以上、六四歳以下の男女毎月男一〇〇文、女三二文の課業銭を課した。同三年村山村では一一四人が免除を願いでている。荒神堂は同四年には本堂を再建した。宝蔵寺は廃寺となったが、本尊大日如来は専照寺(信更町赤田)に安置されている。また、仁上(にうえ)や大久保はこの災害のあと村山から移った集落であるという。