昭和二十年(一九四五)二月二十五日には信里地区にもはじめて「空襲警報」が発令された(『信里小学校百年誌』)。こがら地籍(若林から遊谷にはいるところ)には、軍用の松根油工場がつくられた。信里小学校には陸軍通信隊が宿泊し、茶臼山に無線機を備えていた。村山布施神社境内には、航空用のガソリン、アルコールなどの缶が山と積まれ、国道沿いの林の中に五、六ヵ所のガソリンの貯蔵壕(ごう)を掘ったという。昭和二十年八月十五日、未曾有(みぞう)の戦禍(せんか)をもたらした太平洋戦争は終わった。信里地区の太平洋戦争の戦死者は一二〇人であった(『更埴地方誌』)。