近代清野村の成立

301 ~ 302

清野地区は、近世には清野・岩野の二ヵ村に分かれ、ともに松代領であった。『町村誌』には、「慶安二年(一六四九)に馬喰(ばくろう)町が松代町へ合併した」と記されているが、これは新馬喰町が松代の町外町(ちょうがいまち)になったことをさすのであろう。明治の廃藩置県(はいはんちけん)後、松代町とのあいだに境界争論がおこり、清野村では神田川を境界とすることを主張したが、馬喰町が反対したため清野村の主張は通らなかった。しかし、新馬喰町は明治八年(一八七五)に清野村へもどった(『町村誌』)。

 明治七年の大区・小区制では、清野・岩野の両村で第一三大区第三小区(副戸長 近藤織右衛門・上原寿作)を構成し(『県史近代』②)、明治十八年の連合町村制でもそのまま二ヵ村が連合した。

 明治二十二年の市制・町村制の施行にさいして、県は清野・岩野両村合併を諮問した。両村では連合村会を開いて三日間にわたって審議したが、可否両論が並行していずれも過半数に達せず、清野村は「合併を熱望する」と答申し、岩野村はいったんは独立を主張した。しかし、県の説諭もあって両村は合併し、埴科郡清野村となった。村役場は両村の境界に近い道島(どうじま)に置かれ、初代村長には志津助之丞が就任した。この近代清野村は六二年間つづいて松代町清野となった。


写真1 清野村道路元標