四ッ屋遺跡は、妻女山と離(はなれ)山の先端を結ぶ自然堤防上にあり、清野小学校から五反田まで幅五〇から六〇メートルで、東西約一・七キロメートルにおよんでいる。昭和三十五年(一九六〇)に清野小学校の防火用水槽の工事中に円筒埴輪(はにわ)が出土したのがきっかけで、五十一年から五十四年にかけて調査がおこなわれ、豊富な遺物が発掘された。弥生(やよい)時代から平安時代にかけての遺跡で、とくに弥生時代後半に大きく展開したらしい。埴輪円筒をめぐらした直径約二〇メートルの遺跡は古墳という説が有力である。また、「松井」とへら書きされた須恵器(すえき)が発見され、地域一帯が古代の「英多(あがた)庄松井郷」に関連の深いことが確実になった。そのほか占骨に使用されたものと考えられる鹿の肩甲骨・紡錘車(ぼうすいしゃ)・銅製の釧(くしろ)なども出土している。