英多(あがた)郷と大穴(おおな)郷は、いずれも『和名抄(わみょうしょう)』に載る古代埴科郡七郷のうちである。このうち英多郷の範囲はほぼ現在の松代町松代を中心とした一帯だと考えられている。四ッ屋遺跡から「松井」と刻書された一〇世紀後半の土器が出土し、清野が英多荘に属していたことはほぼ確実になった。松井は、元亨(げんこう)元年(一三二一)の戸隠神社旧蔵の妙法蓮華経版木(はんぎ)に、「英田庄松井の住人藤原正長寄進」と書かれた地名である。
いっぽう、岩野地区は大穴郷に属していたと伝えられる(『町村誌』)。大穴郷の範囲も諸説あるが、雨宮(あめのみや)・土口(どぐち)など更埴市東部とする説が有力である。明治のはじめの岩野には倉科学校の支校があったこともあり、岩野は更埴市方面との関係が深かった。