鞍骨(くらほね)城跡は清野の南にある鞍骨山頂の西方、標高七九八メートルの地点にある。松代地方では古くから「一にはり山、二に尼巌(あまかざり)、三に鞍骨」といいならわされ、鞍骨城は松代近在では指折りの堅固な城に数えられていた。とくに北斜面は険しい。山頂の本郭の東北には土塁が残り、東がわの郭(くるわ)には井戸のあとがある。西の尾根上にも郭がつづいており、それぞれ平石小口積みの石垣が自然の傾斜を利用して数段にわたって築かれている。さらに西の尾根には二重に掘られた中核土濠(どごう)があって駒留(こまどめ)とよばれ、馬場とよばれる平坦(へいたん)な土地が尾根沿いにつづいている。土濠の西北の一段下には水の平の地名がある。また、支脈の象山(竹山城)・妻女山・天城(てんじょう)山(天城城)にはそれぞれ支城があり、鞍骨城が詰めの城であったと考えられている。
天正(てんしょう)十年(一五八二)七月、上杉景勝(かげかつ)は佐久方面から八幡表(更埴市)へ進出した北条氏直と対戦するために、赤坂山に陣を取り、鞍骨(鞍懸)へ登って敵陣を偵察している(『信史』⑮)。
鞍骨城の城主は中世の清野氏と伝えられ、北ふもとの大村には清野氏の屋敷跡と伝えられる場所がある。また大村集落から登る道すじには、一の辻(つじ)・二の辻・三の辻など古い地名が残っている。