大村集落の入り口にある台地上の小平地で、現在は古峰(こみね)神社の境内になっている。清野氏が海津(大英寺付近)へ移ったのちは倉庫が置かれ、酉(とり)(西北)の方角にあたったので、「とりのくら屋敷」とよばれたという。しかし、居館の遺構ははっきりしない。
清野氏は村上氏の一族で、俗に村上九家の筆頭といわれた。古くからこの地方に勢力を張り、永享(えいきょう)十三年(一四四一)の『結城(ゆうき)陣番帳』には、雨宮(あめのみや)・漆田(うるしだ)・生仁(なまに)の三氏とともに陣番を組んで名をみせる。全盛期の領地は西条・清野・岩野・土口(どぐち)・生萱(いきがや)・倉科・森・雨宮・屋代の九ヵ村におよんだという。戦国時代には早くから武田氏に属し、天文(てんぶん)二十二年(一五五三)、清野左近太夫は信玄から「信」の一字をあたえられ、真田氏らとともに川中島方面の経略にあたった。更埴市森の禅透院(ぜんとういん)(弘治(こうじ)元年・一五五五開創)や西条の法泉寺(永禄七年開創)はいずれも清野氏が前山(佐久市)貞祥(ていしょう)寺の開山節香徳忠を招いて開いたと伝え、禅透院には清野氏の墓がある。
清野氏は、武田氏滅亡後は上杉氏に属した。天正十六年(一五八八)の春日山(新潟県上越市)でおこなわれた連歌(れんが)の会には清野清寿軒範真の名がみえる。文禄(ぶんろく)四年(一五九五)の「定納員数目録」では清野助次郎が猿ヶ馬場留守居役として四一七七石余をあたえられ、軍役二五〇人余を負担している。慶長(けいちょう)三年(一五九八)の上杉氏会津移封のさいは一万一〇〇〇石の大身であった。文禄四年に、「信州之清野入道覚阿弥陀仏」が清浄光(しょうじょうこう)寺(神奈川県藤沢市)の遊行(ゆぎょう)上人へ寄進した衾(ふすま)が残されている。
雨宮坐日吉(あめのみやにいますひよし)神社(更埴市)の御神事の獅子踊り(国重要無形民俗文化財)は、江戸時代には毎年松代城内へ上って踊ったが、その帰途にはこの屋敷跡で踊りを奉納するのが例であった。大村の集落は、宝永・天保(てんぽう)と二度にわたってこの屋敷跡から出火した。とくに天保の出火は、たまたま雨宮の祭日だったので、弘化三年(一八四六)、村民は旧領主清野氏を追福するために、屋敷跡に「清野氏遺愛之碑」を建てて供養した。撰文は松代藩の家老鎌原桐山(かんばらとうざん)で、旧領主清野氏の由緒を書き、その霊を慰め村の平和を祈願している。屋敷跡の古峰神社は栃木県鹿沼(かぬま)市に本社がある火災除けの神社で、大村地区では近年まで毎年三人の代参を送っていた。