会津比売神社 岩野 ①祭神 会津比売(あいずひめ)神 ②由緒 岩野の産土(うぶすな)神 江戸時代には妻女権現とよばれていたが、慶応四年(一八六八)社号を允許(いんきょ)された(「神社明細書」)。会津比売命は健御名方命(たけみなかたのみこと)の子出速雄(いずはやお)神の娘と伝えられている(『諏訪旧蹟志』では、会知早雄命の娘で信濃国造五百建(くにのみやつこいほたける)命の室という)。「信濃国会津比売神」は貞観(じょうがん)八年(八六六)従四位下をうけている(『三代実録』)。昭和五十年(一九七五)には地域の産業(養蚕と長芋)の発展を祈念して保食神(うけもちのかみ)を合祀(ごうし)した。平成五年(一九九三)、境内に接して上信越自動車道が開通したため、社殿を改築し、境内を整備した。境内には養蚕社、大神宮・保食社・水天宮のほか筆塚・芭蕉塚などがある。
松代招魂社 清野 ①祭神 国家公共に尽くした人の神霊 ②由緒 明治二年(一八六九)四月、松代藩が戊辰(ぼしん)戦争で戦死した士卒五二人の招魂祭を妻女山で執行したことに始まり、のち官祭招魂社となった。松代藩主真田幸民(ゆきもと)は戊辰戦争の賞典録のうち一〇〇石を永代祭祀(さいし)料として寄進した。明治十三年には拝殿を建設し、飯山戦争がおこなわれた四月二十五日を祭日として祭祀をつづけた。終戦までは松代周辺町村(北埴と雨宮村)連合の大祭で、松代町と清野村とが隔年に祭りの年番をつとめ、武道の奉納試合などがおこなわれた。境内は川中島合戦の上杉謙信の陣所のあとと伝えられ、展望台や記念碑・文学碑などが多い。妻女山の登り口には船繋(つな)ぎの松とよばれる松の大木があり、往来の人びとに親しまれていた。
大宮神社 宮村 ①祭神 健御名方命 天照大神(あまてらすおおみかみ) ②由緒 清野二区(大村以西)の産土神。宮村の地名の起源となった神社で、江戸時代には「諏訪大宮明神」とよばれていた。明和五年(一七六八)には、郷中月掛けの勧化(かんげ)で石鳥居を建立した(『松代藩庁と記録』)。明治十年に社号允許(いんきょ)、明治末年に村内の四社を合祀した。延慶(えんきょう)年間(一三〇八~一一)といわれるものをはじめ、寛文(かんぶん)・宝暦・安永各年代の棟札(むなふだ)が残されている。文政二年(一八一九)地元清野連奉納の俳句額がある。
離山神社 離山(はなれやま) ①祭神 健御名方命 八坂斗売命(やさかとめのみこと) ②由緒 清野三区(清野東部)の産土神。江戸時代には松代城下町の一部も氏子であった。社殿は離山の尾根の先端にあって眺望がいい。山上からは松代城内が見えるため、享保(きょうほう)七年(一七二二)には参詣者の峰への登山禁止の制札が立てられ、番人がおかれた。永正(えいしょう)年間(一五〇四~二一)に清野氏が鞍骨城を築いたとき、鬼門除けに祭ったという伝承がある。境内には末社二二社の石祠(せきし)がある。また「おあさ社」は中気(ちゅうき)(中風(ちゅうぶう))の神として参詣者が多かった。文政二年森村(更埴市)の俳人たちによって奉納されたものなど三面の俳句額があり、文政三年のものには一茶・武曰(ぶえつ)などの名がある。