二 寺院

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 林正寺 浄土宗 大村 ②山号 真光山(信広山) ③由緒 元亨(げんこう)年間(一三二一~二四)に、右大弁(うだいべん)信広がこの地に流されて倉科坂の登り口に庵(いおり)を結び、没後村びとがその菩提(ぼだい)のために信広寺を創建、のち林正寺となったという。のち僧遍阿(へんあ)が再建して、森(更埴市)興正(こうしょう)寺の末寺になった。明治年間火災にあい、庫裏(くり)だけだったのを、昭和二十七年(一九五二)、長国寺から松代二代藩主真田信政の御霊屋(おたまや)を移して本堂とした。信政は明暦(めいれき)四年(一六五八)二月、父信之に先立って死去し、信之も同年十月に没した。御霊屋は万治(まんじ)三年(一六六〇)の建立で、桁行(けたゆき)三間、梁間(はりま)四間、入母屋(いりもや)造りである。内部は桃山様式の豪華な極彩色で、三十六歌仙の板絵がある。本堂および表門は県宝。境内には松井須磨子の「演劇碑(カチューシャの歌)」がある。岩船地蔵は「真光寺の夜泣石」とよばれ、こどもの夜泣き止めに信仰されたという。

 風雲庵観音堂 宮村 ①本尊 千手(せんじゅ)観音 ②山号 大里山 ③由緒 はじめ妻女山のふもとの大里にあり、大里山浮雲寺とよんだという。村上義光の家臣清野某が供養のために建立したともいい、また武田信玄が祈願して川中島の合戦に勝利を得たとも伝えている。信濃三十三番観音の第四番札所で、一般には清野観音とよばれた。文化十四年(一八一七)、小森連などが催主となった俳句額がある。また境内には札所(ふだしょ)供養塔など石仏が多い。

 高源寺観音堂 浄土宗 大村 ①本尊 聖(しょう)観音 ②山号 清涼山(のち来迎山) ③由緒 もと天台宗、慶長(けいちょう)二年(一五九七)僧白道が寺堂を再建し中興開山となった。承応(じょうおう)二年(一六五三)、真田信之の娘見樹院が、二代藩主信政の子高源院・清涼院の供養のために再興し、その法号をとって清涼山高源寺と改めた。高源院・真田信之と二つの供養塔が残っている。檀家はなく、松代領内一円の御免勧化(ごめんかんげ)を許されていた。明治十五年に廃寺となった。石造阿弥陀如来坐像があり、寛政十二年(一八〇〇)の算額も復元奉納されている。

 龍泉寺跡 真言宗 大村 ②山号 天野山 ③由緒 もと御堂平にあったという。明治七年廃寺、のち再興したが、戦後の農地解放で寺地を失い、ふたたび廃寺となった。境内に「おきくの宮」がある。

 十王堂跡 大村 大村集落の北の入り口にあたる古峰(こみね)神社の参道わきにあり村民の集会場だったが、明治六年廃寺になり、石造閣魔(えんま)像・十王像は高源寺観音堂へ移された。十王堂口の名が残っている。

 正源寺跡 浄土真宗本願寺派 岩野 ②山号 荘厳山 ③由緒 上野(こうずけ)国(群馬県)の僧智了が戦乱を逃れてこの地に移り、寺堂を建立したという。はじめは村の西北にあったが寛保の水害で流され、岩野駅の南の山麓(さんろく)に再建した。善光寺地震後、寺堂修復のために「御家中・在・町相対(あいたい)勧化」を願いでている。江戸時代の住職伊熊秋水は俳人として知られた。昭和二十四年に廃寺、本堂は篠ノ井へ移され、太平観音堂となった。

 清水庵地蔵堂 岩野 ①本尊 地蔵菩薩(ぼさつ) ③由緒 本尊のほかに聖観音・魚籃(ぎょらん)観音・百番観音を安置する。堂は岩野集落の中央にあり、数珠(じゅず)回しなどがおこなわれた。現在も報恩講を中心に年間二〇回をこす行事がおこなわれている。寛保の満水で寺堂は流失したが、聖観音は安政六年になって地中から発掘され、百体観音もあわせて再建安置されたという。魚籃観音像は、慶応二年(一八六六)地元の絵師青木雪卿(せっけい)の作だという。

 笹崎薬師 岩野 ①本尊 薬師如来 笹崎(薬師)山にあり、横田河原の合戦に木曾義仲がここに陣をとったという伝承がある。薬師堂に石造薬師五体をまつる。とくに眼病に利益(りやく)があるといわれ、また干ばつのときは千曲川の水につけて降雨を祈願した。現在、祭りは岩野全区の祭りである。