北国街道松代通りに沿った街村(がいそん)で、村の中央部を街道が東西に貫通し、両がわには家並みがつづいている。西の笹崎(ささざき)は千曲川にすそを洗われる難所で松代城の西の関門であった。
村高は『慶長打立帳』で六三四石余、『天保郷帳』では八五七石余となっている。『町村誌』には、「千曲川が岩野耕地の中央を流れ、長雨・大雨のときは、大水が耕地や宅地に浸水し、年に数度の水災はまぬがれない」と記されている。寛保(かんぽう)二年(一七四二)の戌(いぬ)の満水には、全村流亡に近い壊滅的な被害をうけた。その被害者の供養として、街道沿いに「川流溺死(かわながれできし)万霊供養塔」、水除けの「罔象女神(みずはのめのかみ)」、「水天宮」が祭られている。宝暦三年(一七五三)、同六年とつづけて検地を願いでているのもおそらく川欠(かわかけ)の見分のためであろう。
岩野村は、『正保郷帳』にも「皆畑(みなはたけ)」と記載されるほどの「岡どこ」で、水田はまったくなかったので、対岸の東福寺や横田地区へ出作をするものもあった。作舟で千曲川を渡っての耕作は費用がかかったが、必需品である米や藁(わら)を手に入れるためには、やむをえなかった。作場渡しはのちに岩野橋となった。干ばつの常襲地で、笹崎薬師は干害のときご利益があるとして信仰された。
また、明治三十五年(一九〇二)ころから大正にかけて、岩野では千曲川の流れを利用した水車が営業された。舟に水車を積んで、川水でまわすもので、主として精麦に利用された。