清野村の石高は『慶長打立帳』で九八七石余であったが、『正保郷帳』でも一〇三三石とほとんど変わらない。江戸時代のはじめにはすでに開発され尽くしていたのであろう。『正保郷帳』では、田四二一石余(四二・五パーセント)、畑五七〇石余(五七・五パーセント)で、畑のほうが少し多かった。
古くは街道が地区南部の山麓(さんろく)を横断していたが、慶長年間に北国街道松代通りが整備され、そのころ自然堤防の上へ移ったらしい。文化十三年(一八一六)には、新馬喰(しんばくろう)町から赤坂までほぼ直線で結ぶ道路が開かれた。また、赤坂の渡しは寺尾の渡しとならんで、松代から川北への重要な連絡路で
あり、道島(どうじま)からは赤坂の渡しへの道が通じていた。
清野は沃土(よくど)で野菜はよくできたが、砂地で干ばつに弱く、また雨がつづくと低湿地では湛水(たんすい)に苦しんだ。安永五年(一七七六)、松代藩では田方三五石分を手あてとして免除し、同八年には特例として五年間、四ッ五分(四五パーセント)の免相(めんあい)を七分引いた。そのほか御用回状や伝馬勤めなどの公役が多いためとして川欠分も免除した。「元禄郷帳」の枝村調には、離山・越(こし)・鳥見塚(とりみづか)・間(あいだ)(会田)・宮・四ッ屋・新馬喰・五反田の八ヵ村がある。岩野村とは対照的に集落は沖とよばれる低湿地の周辺に散在している。
江戸時代の清野には松代藩士の屋敷があり、大村集落だけでも一三〇軒におよんだという。「清野御家中」とよばれ、二代松代藩主真田信政が沼田から松代へ来たときに移住してきた藩士が多かったという。明治初年の『町村誌』によると、清野村の総人口一二二四人のうち士族は六二二人で約五一パーセントを占めていた。