新馬喰町は、馬喰町が清野村地籍へ広がってできた北国街道沿いの町で、松代城下の西の入り口にあたっていた。新馬喰町の名は本馬喰町にたいする名称で、すでに『元禄郷帳』の「添目録」に、「清野村之枝村 新馬喰町村」として出ているので、それ以前からのものである。明治の『町村誌』に、「慶安(けいあん)二年(一六四九)に馬喰町が松代へ移った」とあるのは、新馬喰町の独立をさしていると思われる。清野村地籍ではあったが高辻はなく、公式な書類には「清野村之内除御年貢地新馬喰町」と記され、清野村の枝村ではあったが、実態は松代の町外町(ちょうがいまち)であった。名主や組頭も別に任命され、人別帳も別である。名主・組頭は文政八年(一八二五)ころには一時月番制をとり、一二人の役人が交替に役を勤めた。別に「五組世話番」がいて、町内の重要な事項の相談にかかわっていた。松代の町外町は「いろは順」に、「い組」から「ふ組」まで三二組に分けられたが、新馬喰町は「い組」、同東裏は「ろ組」であった。藩からの回状は、清野村とは別に、い組から町外町を回すのがつねであった。
住人は、下級武士や商人・職人が多かった。慶応三年(一八六七)には、新馬喰町五一軒と東裏七軒があり、五人組が七組で、人口は二三二人であった。弘化二年(一八四五)の「新馬喰町家業御書上帳」によると、総数四六軒のうち先手組・飛脚組・城番同心などの下級武士が一五、足軽番代が八である。専業の農家はなく、小作農が一〇軒で、いずれも清野や東福寺に畑をもっていた。小商(こあきない)が六軒のほかに木綿(もめん)商・刺物商・酒造・殼屋が一軒ずつ、紺屋・大工・桶屋(おけや)も一軒ずつであった。
弘化二年の「宗門人別書上帳」によると、修験二をふくめて全部で五八軒、二三四人が書きあげられているが、その菩提寺は三〇ヵ寺と多い。森(更埴市)の禅透院が一〇軒でもっとも多いが、その他は一軒・二軒が大部分で、古山村(小川村)法蔵寺、中牧村(信州新町)興禅寺、岩草村(七二会)性乗(しょうじょう)寺などもあり、領内各地から流入してきたようすがうかがわれる。
宝暦年間(一七五一~六四)、新馬喰町に借家していた越後の屋根職人が、火事のとき素早くかけつけて消火にあたったのが藩役人の目に留まり、以後新馬喰町へ火事役が命じられ、嘉永(かえい)元年(一八四八)には一五人の火事役が義務づけられていた。新馬喰町では人員を確保するため年中足留料として一〇〇疋(ぴき)ずつ負担した。しかし、明治四年に、新馬喰町では「四四軒のうち四〇軒が藩勤めのものであり、これ以上の負担はできない」として火事役免除を嘆願している。