松代騒動

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明治三年(一八七〇)、藩札と太政(だじょう)官札の等価引きかえなどを要求しておこった松代騒動(午札騒動)の一揆(いっき)勢は、「人民沸騰(ふっとう)」(政府への報告書)と表現される勢いを示して松代城下へ押しよせた。十一月二十五日の午後一〇時ころ上山田村をたった一揆勢は、力石(ちからいし)の渡船場で千曲川をはさんで二手に分かれて北上した。本隊は矢代・雨宮(あめのみや)(更埴市)をへて岩野へ向かい、川西を回った一隊は稲荷山(いなりやま)をへ、赤坂の渡しを渡って二十六日の朝、岩野で合流した。一揆勢はここで藩役人に説得されたが、「こっぱ役人では相手にならん」と追いかえし、馬喰町で山越えの一隊と合流し、松代城下へ突入した。山越えの一隊は、磯部から宮坂峠(戸倉町・更埴市)を越え、「出ろや、出ろや」と村々を糾合しながら、森・倉科から倉科坂(更埴市)を越えて清野の大村へ入った。大村には清野家中とよばれる士族が多く住んでいたが、みな城へ詰めていた。一揆勢は門構えの家を焼き、蚕棚を引きだして松明(たいまつ)を作り、松代へ向かった。

 城下へ突入した一揆は、大英寺で藩知事真田幸民(ゆきもと)と直接交渉し、藩札の等価引きかえなどの証文を得て引きあげた。しかし、燃えひろがった騒動の火は、手をほどこすすべもなく善光寺領をもつつむ大騒動となった。清野地区は松代城下への入り口にあって通過地となったが、打ちこわしなどの対象にはならず、大きな被害はうけなかった。しかし、なかには一揆に加わって徒刑に処せられたものもあった。松代方面からは倉科坂をくだるたいまつが狐火(きつねび)のようにみえたという(『松代庶民の歴史』)。