自然堤防の背後にある湿地帯は、清野のひどろっ田・大里(おおざと)湖などとよばれ、小学校のスケート大会が開かれるほどの深田である。臼(うす)ヶ池付近を開田するときは、松の生木を縦横に入れ、その上に豆がら・綿がらなどを入れたが、それでも代かき馬を入れることはできなかったという。いっぽう周辺の微高地や自然堤防上では干ばつに苦しみ、「高低等しからず、高地には灌漑(かんがい)の利なく、低地には排水の便なし。水旱(すいかん)ともに患う」(碑文)といわれた。干ばつと湛水(たんすい)と両面の対策を求められたのである。
明治四十二年、湛水地帯の土地所有者は共同で自営工事を実施し、勘太郎橋地籍へ幅三メートルの排水用のアーチ型水門を建設した。いっぽう、東沖地区では地下水源による畑の水田化をはかって、大正十五年に東沖耕地整理組合を設立し、河原新田(象山口駅の西南)に電動揚水機による灌漑施設を設置した。西沖地区でも組合を作ってこの水源から分水し、灌漑に利用した。さらに昭和三年には中沖耕地整理組合が乾田化のために排水機を設置し、狐塚まで排水路を建設した。当時としては画期的な事業であった。記念碑には「積年の患い全く除かれ、歓呼の声途に充(み)つ」と刻まれている。昭和二十二年に、三組合は統合して清野水利組合を結成した。