中世の古道は、西条から法泉寺南部の多田越(ただごえ)(唯越・直越)を越えて大村へ出、妻女山を越え、会津比売(あいずひめ)神社から岩野へ出、笹崎(ささざき)から峠を越えて土口(どぐち)へ通じていた。土口から岩野回りの道が開削されたのは慶長(けいちょう)十三年(一六〇八)七月のことだという(『土口村誌』)。慶長十六年に、中山道の追分(軽井沢町)から越後へ抜ける北国街道が整備され、矢代宿(更埴市)から、雨宮・上口(更埴市)・松代・川田をへて福島(ふくじま)(須坂市)から布野(ふの)・長沼、神代(かじろ)(豊野町)へ通じる道も整備された。この道は一般には松代通りとも雨降り街道ともよばれ、出水などで犀川の市村の渡しが留まったときに迂回路(うかいろ)として利用された。この道は清野地区では自然堤防の上を通って五反田から赤坂に通じていた。途中清野川にかかる勘太郎橋は、松代藩の公式の送迎がおこなわれた。藩の日記類にも「殿様勘太郎橋御通過」などの記事がみえる。勘太郎橋は明治二十七年(一八九四)、洋風のアーチ型の石橋にかけかえられた。
寛保の洪水後に始まった千曲川の瀬直し工事は文化初年に完成し、それまで自然堤防の近くを流れていた流路は北方へ移った。文化十三年(一八一六)には、馬喰町から道島田んぼを通って一直線に道島・岩野へ通じる道が開かれた。工事は吾妻(あがつま)銀右衛門が藩の命令で実施した。これによって矢代方面への交通の便は格段によくなったが、千曲川出水のときには、なお堤防上の古道が利用された。
また笹崎は、上口と並んで松代城の西の関門であり、戊辰(ぼしん)の役(えき)にはここに仮関門が設けられ、徒士(かち)二人に足軽が配置された。街道筋の新馬喰町は明治二十四、五年までは、宿屋二軒、居酒屋五、六軒、駄菓子屋数軒のほか魚屋・雑貨屋もあり、岩野や中道島にも茶屋があった。
明治九年、松代通りは谷街道として県道に指定された。明治初年から人力車が走るようになり、明治七年には官営富岡製糸工場(群馬県富岡市)で製糸方法を習得した工女たち一七人は、屋代から松代まで人力車をつらねて帰った。明治二十三年ころには、松代-屋代間を乗合馬車が開通した。一日四往復で、料金は片道一〇銭であった。大正八年(一九一九)には、このあいだを更埴両郡内でははじめて、定期バス(北信自動車)が運行した。大正十二年には、県道が改修整備された。昭和十六年(一九四一)には、屋代-須坂間を長野電鉄バスが運行した。