倉科坂

326 ~ 326

古くから倉科方面への通路として利用された。明治末年まで坂の中途に傘(からかさ)松という大木があり、松代方面からも見えたという。明治三年の午札騒動のとき、一揆勢の「一手は下戸倉(戸倉町)から宮坂峠(更埴市)を越し、森村をへて倉科村から清野坂を越えた」という(「藩幣騒擾(はんぺいそうじょう)調書」)。