寛保(かんぽう)二年(一七四二)八月、千曲川沿いの村々は台風による集中豪雨のために大被害をこうむった。「松代満水の記」では、清野村では流失や潰れ家が二七戸、山抜け二二ヵ所、往還道五〇間が抜け落ちたと記しているだけで流死者の記事はないが、『町村誌』によると、百余人におよんだという。とくに四ッ屋集落は全家屋が流失したため、東の象山のふもとの離山や五反田へ移ったという。
新馬喰(しんばくろう)町では、流失や潰れ家が一九軒、二七人が流死した。「浦野正英手記」には、水は離山神社の上の石段まで押し上げ、「新馬喰町は水の下に家あり」と記された。五反田も小家は残らず潰れて流れ、二日三夜屋根にまたがっていたものを、離山から小舟二艘(そう)といかだ一つを出して、三人ずつようやく屋根から助けたという。
岩野村の被害は埴科郡内でももっとも大きく、流失家屋は一四四戸におよび、一六〇人が流死し、往還道六〇〇間が抜け落ち、「田畑は残らず川欠や砂入りになった」と報告された。村人口の三分の一ほどが死亡するという壊滅的な大被害であった(「松代満水の記」)。
現在も、岩野には「川流溺死万霊供養塔」が残り、新馬喰町では供養のための百万遍念仏の行事がつづけられ、被害の大きさを物語っている。