千曲川の瀬直し

328 ~ 328

寛保の満水後、海津(かいず)城を保護するために千曲川の瀬直しが実施された。四ッ屋の北で、南へ曲がっていた流路をまっすぐに東へ流す工事で、川幅一四間、長さ三四一間の新川を開削した。工事は延享(えんきょう)四年(一七四七)ころに着工したが、新川の開削によってもとの瀬はしだいに細くなり、沿岸に新田開発地が広がってきた。宝暦十三年(一七六三)に、清野村が新しい耕地の高請けを願いでたことから、中沢村・東福寺村とのあいだに争論がおこった。藩では古川敷三町七反一畝二〇歩を御用地として引き上げ、その南端を清野村と東福寺村・中沢村との村境と定め、御用地のうち南のほう約二町六反余を清野村へ預け、北のほう約二畝余を中沢村と東福寺村へ預けることとした。堀川工事は文化五年(一八〇八)に旧流路を締め切ってほぼ完了した。この結果、文化十三年には、馬喰町から赤坂まで、ほぼ御用地に沿って一直線の道が開通した。