寛保の満水を除くと、千曲川の洪水が自然堤防を越えて清野田んぼへ押し寄せることは少なかったが、明治以降は水害が多くなったという。明治二十九年(一八九六)の洪水は自然堤防上の古道を越えて田畑に大被害をあたえ、同三十年、三十一年にも連続して洪水に見舞われた。清野堰(せぎ)の下流一帯は土砂が堆積(たいせき)して盛り土のようになったためで、低地では一週間以上も水が引かない状況であった。明治四十三年の大洪水の被害は、『埴科水害誌』によると、清野村の被害は埴科郡では松代町についで多く、家屋の損壊二一〇戸におよんだ。大村の一部をのぞく清野全村は浸水し、麦刈後に栽培したさつまいも・野菜類はほとんど全滅した。こうした洪水は明治二十五年から大正五年(一九一六)まで二五年間に一四回におよんだ。
千曲川の治水は、清野村民ばかりでなく沿岸住民にとっては古くからの悲願であったが、技術の未熟や経済力の不足のために実施されないままにすぎた。大正二年になって、沿岸の県会議員を発起人とする千曲川治水会が結成されて運動が始まった。千曲川改修工事は、大正六年十二月に閣議決定をし、七年度から政府の直営工事として実施された。上田市から桑名川(飯山市)にいたる大工事であった。清野村地域では大正七年に着工し、二三年を費やして昭和十六年(一九四一)には全工事が完成した。これによって長年にわたる大規模な水害のおそれは解消した。