高見沢領一郎の調査によると、清野地区の寺子屋師匠は一五人、筆塚は一〇基ある(『信濃』二五-一〇)。師匠の職業は、僧侶・農民・武士がそれぞれ五人ずつとなっている。筆塚一〇基のうち八基が岩野地区にあり、また七基が明治以降の建立である。
高久右門(たかくうもん)は、儒教・朱子学を学び、碩学(せきがく)の誉れが高かった。大村の「とりのくら屋敷」の近くに住み、天明年間、寺子屋を開いて近隣の子弟を教授した。「飛石天満宮碑」のほか二十六夜塔・道祖神など、残された筆跡は多い。寛延(かんえん)四年(一七五一)に書かれた往来物『海津往来』の作者だといわれる(『松代学校沿革史』)。
岩野の上原一郎太・寿作父子はいずれも名主をつとめたのち、寺子屋師匠として夜学などで近隣の子弟を指導した。一郎太の嘉永(かえい)二年(一八四九)の弟子名簿には八二人の名があるが、総数は一五〇人にのぼったという。会津比売(あいずひめ)神社には門人たちが建てた「菅城公碑」がある。ほかに正源寺の住職伊熊実浄かおり、また、妻女山の登り口には、真田流砲術家で、藩の砲学局奉行をつとめた佐久間庸山の筆塚(山寺常山撰文)もある。