清野小学校

330 ~ 331

明治五年(一八七二)に学制が公布されると、翌六年には清野学校が林正寺に開校、同七年一月には高源寺へ移って「松代学校支校」となり、同年三月には岩野の正源寺に倉科村「奨蒙(しょうもう)学校支校」が設立された(『清野小学校開校八十周年記念誌』)。同十一年にはそれぞれ独立して、清野学校・岩野学校となり、同十九年には両校が合併して「清野学校」となり、道島(どうじま)に校舎を新築した。明治三十五年に清野尋常高等小学校となった。清野の大里は低湿の湛水(たんすい)地区で、大正時代の末から大里田んぼを利用してスケートをさかんにおこなった。のちには北埴一町五ヵ村の高等科生徒によるスケート大会も実施された。地域性を生かした教育活動のひとつであった。戦前は妻女山を訪れる著名人が学校へも立ち寄ることも多く、校内にも手植えの樹木が残っている。

 戦後の昭和二十二年(一九四七)、新学制による清野小学校・清野中学校が発足した。昭和二十九年、清野中学校は松代中学校へ合併した。


写真9 清野小学校のスケート風景(昭和45年)