岩野の俳人で、本名は真了、別号を白華楼・花哉坊・花白坊といった。壮年にして京都へのぼり、悉曇(しったん)(サンスクリット)や韻鏡(いんきょう)(中国の韻図)をはじめ、挿(さ)し花・茶道・聞香(もんこう)などの諸芸に通じた。とくに俳句は高桑蘭更(らんこう)に師事し、全国的に知名度も高く、松代藩主幸弘(俳名菊貫)とも風交があった。全国を行脚ののち、帰郷して正源寺の住職となった。岩野の秋水門下は百花連といい、寛保洪水の供養塔建立には、小石に三部経を記してその塔下に納め、また、芭蕉の夕日塚の建立にも尽力した。