江戸の河田迪斎(てきさい)の子で、松代藩士小林畏堂(いどう)の養子となった。明治二年(一八六九)、長野県下最初の郷(ごう)学校である今里(川中島)の日新館の教師となり、同六年「学制」公布にともない選ばれて伝習生となり、東京師範学校の講習をうけて県下に伝えた。翌七年改めて東京師範学校に学んだ。同八年長野学校、ついで長野師範学校の教師となる。のち開智・飯山各学校の校長を歴任し、近代教育草創期のリーダーとして知られる。
小林常男
江戸の河田迪斎(てきさい)の子で、松代藩士小林畏堂(いどう)の養子となった。明治二年(一八六九)、長野県下最初の郷(ごう)学校である今里(川中島)の日新館の教師となり、同六年「学制」公布にともない選ばれて伝習生となり、東京師範学校の講習をうけて県下に伝えた。翌七年改めて東京師範学校に学んだ。同八年長野学校、ついで長野師範学校の教師となる。のち開智・飯山各学校の校長を歴任し、近代教育草創期のリーダーとして知られる。