昭和十九年(一九四四)、戦争の激化にともなって象山・妻女山・皆神山(みなかみやま)周辺の山々に地下壕を掘り、大本営を移転するための工事が始まった。象山の地下壕はイ号と呼ばれ、政府機関・NHK・電話交換センターなどが、また大宮神社の裏の妻女山には通信施設が置かれる予定だったという。清野の中沖地区にはイ号飯場がつくられ、その数は三五棟におよんだ。朝鮮人労務者の飯場で、略して「イ地区」とよんだ。終戦後、昭和三十五年ころまでにほとんどの人は北朝鮮へ帰国した。用地の桑畑は強制的に買い上げられたが、戦後地権者に払い下げられた。
清野国民学校には、縁故疎開や軍や工事関係者の子弟の転入が約一〇〇人におよんだ。また戦争の激化にともなって、陸軍通信部隊が学校の西校舎や体育館を使用したため、四年生以上は午前、午後の二部制の授業をおこなわなければならなかった。