戦後、農業は大きく転換したが、清野地区は「長野盆地においてもっとも先進的な栽培技術をとっている」(『更埴地方誌』④)といわれる先進地であった。大麦・小麦・雑穀・さつまいも・ばれいしょ・養蚕を主とした農業であったが、ビニールハウス・ビニールトンネルを利用した施設園芸の導入によって、きゅうり・なす・トマト・ピーマンなどの果菜類の栽培が可能になり、やがて主力作物となった。施設園芸は昭和三十二年ころ静岡県から導入してしだいに広まった。早期出荷をねらったもので、出荷価格は安定し、高価であった。さらに、昭和三十七年の農林省のモデル事業の導入によって畑地灌漑(かんがい)の必要性が広く認識されるようになり、同四十一年には、第一次農業構造改善事業の指定をうけ、畑地の区画整理と灌漑事業を取りいれた。その結果、現在みられるようなビニールハウス団地が展開されている。果菜類のほかビニールハウス等を利用した花卉(かき)栽培もさかんである。
平成十年(一九九八)の清野地区の農家率は三五・四パーセントで、市内では信更・長沼についで多い。市内では有数の農業地域である。平成七年の水田一五・八二ヘクタール(一二パーセント)、畑一一〇・〇二ヘクタール(八三・三パーセント)、樹園地六・一六ヘクタール(四・七パーセント)で、水田から畑への転換がすすんでいる。
いっぽう、工業もさかんになり、五反田地区を中心に、半導体・家庭雑貨・特殊専用機などを生産する工場が進出している。