本章でいう松代とは明治二十二年(一八八九)の町村制でできた松代町の地区をいう。真田氏一〇万石の城下町の区域にある。面積一・五六平方キロメートル、標高三五六メートル。ほぼ現在の松代町松代の地域にあたる。山林原野をふくまないので面積が狭い。
東は主に東条に、南は西条に、西は西条・清野に、西北から北は東寺尾にそれぞれ接している。これら隣接の地区は事実上城下町の一部だったところが多く、東条地区の荒町・十人町、西条地区の同心町、清野地区の新馬喰(しんばくろう)町などはそのまま城下の町につづいている。
松代城付近は水質が悪く、近世には飲用水は神田川や御安(ごあん)の湧水(ゆうすい)などから引いており、また武家屋敷の泉水の水も神田川、扇状地末端の湧水などに頼っていた。同じ小流がつぎつぎに下流の屋敷地に流れこむようになっており、街のなかを清流が流れていた。地区の南端に近い松代高校(西条地区)の北が標高三六七メートル、約二キロメートル離れた松代城跡は三五一メートルで、一キロメートルにつき約五メートルずつ下がり、町全体が北下がりになっていて、水がよく流れた。松代町を中心とする旧五村(清野・西条・豊栄(とよさか)・東条・寺尾)の地区は一町五ヵ村とよばれ、一つのまとまった地区になっていた。要害の地であり、武田信玄は北信濃の根拠地としてここに城を築いた。城は千曲川の自然堤防に接する湿地帯に築かれた。要害の地ではあるが、生活には不便な点もある。