松代藩領内では松代だけが町であり、「お町」とよばれた。政治の中心として善光寺町より有利な地位にあったが、廃藩以後はその優位が失われた。明治四年(一八七一)七月十四日、廃藩置県により松代県ができたが、十一月二十日長野県に合併、同五年七月、区制施行により第二九区になった。清野・西条・豊栄・東条・寺尾各地区の旧村はたいてい二九区に属し、のちのちまで一町五ヵ村と称して一つのまとまった地区をなした。区長役場は松代学校に置かれた。同七年七月、大小区制がしかれ、松代は第一三大区(同九年から北第一三大区)第四小区になった。大区長は松代の横田数馬(かずま)と矢野唯見(ただみ)だった。明治十二年大小区制が廃止され、郡が置かれ埴科郡役所は屋代に置かれた。初代郡長には松代の横田数馬が任命されたが、松代は郡の中心ではなくなった。
各町村に戸長が置かれ、ついで明治十八年連合戸長役場の制度ができ、松代に松代町ほか二ヵ村(東条・西条)連合戸長役場が設けられた。明治二十二年町村制が施行され松代町が成立した。このとき、周囲の諸村は合併して村ができたが、松代町だけは旧城下町だけで独立した。人口七八七五人、この周辺では飛び抜けた多さだったので、周辺農村との合併は話題にのぼらなかった。