前海津城跡(香坂城跡)

347 ~ 348

東条の尼巌(あまかざり)(雨飾)城は要地の城で、天文(てんぶん)二十二年(一五五三)武田信玄は真田幸隆(ゆきたか)らにこの城を攻め落とさせた。それからしばらくこの城が信玄の北信濃侵略の基地になった。しかし、山城で不便なので平地にあった清野氏の屋敷地を出城にした。この出城を西山中(さんちゅう)(信州新町・中条村など)の香坂(こうさか)・春日らが守ったので香坂城ともいった。新しく武田方となった山中の武士たちが尼巌城の前線の守備を命じられたのだろう。弘治(こうじ)三年(一五五七)長尾景虎(上杉謙信)は「香坂」を攻めている。弘治四年当時、尼巌城の在番は真田幸隆・小山田昌行らだった。その後間もなく春日弾正虎綱(だんじょうとらつな)(俗称高坂弾正)が城代になり本城をここに移し、拡張して海津城を築いたらしい。前海津城はのち初代松代藩主真田信之の妻小松姫(本多氏)の廟(びょう)(大英寺)の敷地になった。寺の南側には堀の一部が残っており、北側・東側にも堀があった。大英寺の東にある大林寺とその北に接する証蓮寺のあいだには土塁と堀跡がある。証蓮寺はもと東条にあり、海津城ができてから城下に移ってきたが、古い檀家の墓はたいてい土塁の上にある。土塁の南側は低湿で堀跡のようすを残している。この土塁は海津城の総構(そうがま)え(外郭)の一部で、墓になったため現存している。


写真1 海津城総構えの土塁
右手は証蓮寺墓地の墓で土塁上の高いところにある。手前は大林寺墓地で今も葦(あし)が生えて堀の名残を残す