この地はもと萱津(かやつ)といい、のち海津と書かれるようになったという。西念寺(肴(さかな)町)はもと萱津(松代城大手門南)にあったという。日蓮宗蓮乗寺ももと海津寺ともいい、鐘銘に「信州川中島蓮乗寺」と刻んであったという。前海津城を拡張して海津城を築いたのは春日弾正虎綱である。千曲川に臨む自然堤防の微高地を本丸とし、南から東にかけて二の丸などを設けた。虎口(こぐち)には武田氏の城によくみられる三日月堀がつくられている。前海津城を取りこみ、総構えの土塁と堀をめぐらした。はじめ石垣はなく土塁だけであった。完成は永禄(えいろく)二、三年(一五五九、六〇)ころだった。「海津城」という城名の初見は永禄三年九月の武田信玄朱印状である(『信史』補遺)。春日虎綱は信玄の寵童(ちょうどう)の出身でとくに民政に長(た)けていたといわれる。永禄二年から同六年ころまで香坂弾正と称し、また本姓の春日に返っている。たぶん信濃の名族香坂を名乗ったほうが海津城将にふさわしいと思って香坂を名乗ってみたが、春日もやはり信濃の名族なので本姓に返ったのだろう。虎綱はふつう高坂弾正とよばれ『甲陽軍鑑』は高坂弾正の著という形で書かれている。虎綱は天正(てんしょう)六年(一五七八)に死ぬまで海津城代を勤め、その子があとをつぎ、やはり高坂弾正とよばれた。